第1回 下高井戸村から下高井戸3丁目に
我々の住む下高井戸3丁目の辺りは、江戸時代には武州多摩郡下高井戸村の柏之宮、甲州街道沿いは宿と呼ばれていて徳川幕府直轄の天領でした。明治22年の町村制施行により近隣の6ヶ村が合併して高井戸村となり、東は和田掘、西は吉祥寺、南は世田谷区、北は荻窪辺りにまで接する大きな村になりました。そして大正15年に高井戸町になりました。昭和7年に東京市35区の一つとして杉並区が誕生してこの辺りは下高井戸2丁目、その後現在の住居表示町名で下高井戸3丁目となっています。なお、下高井戸村は現在の下高井戸と浜田山の地域で、南北に長い村でした。鎮守の下高井戸八幡神社のお神輿が、下高井戸3町(上町、仲町、下町)と浜田山から出るのはご存知の通りです。
第2回 玉川上水
当町会の南側には玉川上水の跡地を利用した、春には古木も残って見事な桜が咲く細長い公園(杉並区立玉川上水第二公園)があります。江戸への上水道として1653年玉川兄弟によってつくられた「玉川上水]は、多摩川の羽村から江戸の四谷大木戸まで続く約43kmの水路でした。1898年(明治31年)に淀橋浄水場ができてからは原水の送水に用いられていましたが、1965年(昭和40年)に東村山浄水場が完成して淀橋浄水場は廃止され、水路としての役目は終わりました。現在は下水処理水が流されていて、久我山2丁目のNHKグランドの辺りまでと環7通りの前後で流れが見られますが、この辺は大きなヒューム管が埋められ暗渠になりました。公園になる前は上水の敷地は土手の上に有刺鉄線の柵が張られ人は入れませんでした。
第3回 加藤橋のこと
玉川上水が公園になる前の流れがあったとき、向陽商店街から駅前に通じる道と交差するところに「加藤橋」という名の橋がかかっていました。江戸時代この辺りに加藤某という御家人の別荘があって、それを加藤屋敷、そこへ通じる橋が加藤橋と呼ばれていたと記されています。その屋敷の北、今の向陽中学の辺りには大きな前方後円墳?と伝えられる丘があって、お屋敷山といわれていたそうです。橋から商店街の方へは坂を下って行くので、この辺りは甲州街道沿いの人たちから坂下と呼ばれていました。昭和33年の地図によると、商店街の先は道が下高永福多目的会議室(注)の手前から左へカーブして、西永福の駅への道はなく、神田川沿いは水田で向陽橋はまだありませんでした。
(注)現在はレイモンドほいくえん
第4回 荒玉水道道路
桜上水駅の東側に南から北へ一直線に続ぐ道があります。この道が荒玉水道道路で、地下には水道の送水管が埋設されています。大正11年の関東大震災の後、急増した杉並、中野、板橋方面の住民に多摩川から飲料水を供給するため、関係13町村によって大正13年に設立された荒玉水道町村組合が作った水道管の専用道路です。この道は多摩川の砧浄水場から堀の内妙法寺の裏まで真直ぐに続いています。上水道は昭和6年に完成しました。翌7年に東京市が35区に拡がったとき、隣接郊外の公営や町村組合水道などとともに市の水道に併合されました。現在は人や軽量の車が通れますが、昭和37年までは車馬の通行は禁止されていました。先頃地震対策の補強工事が行われていたので、地下に埋められた直径1.1mの太い鉄管を覗き見た人もいることと思います。
第5回 水道の水はどこから
下高井戸3丁目の周りには、南に旧玉川上水(玉川上水第二公園)、北に旧神田上水(神田川)、東側には水道の送水管が埋められている荒玉水道道路があります。東京都では安定した水の供給のため水源の確保と施設の増強を行ってきました。現在水源は利根川・荒川水系(78%)、多摩川水系(19%)、その他(相模川・地下水3%)です。この水は貯水池(小河内、村山、八木沢など)に貯められ、浄水場(東村山、朝霞など)で安全な美味しい水に浄化され、給水所(上井草、練馬、和田掘など)から各家庭に配水されます。通常は利根川系の水で賄うようにして多摩川系の貯水に努め、需要の多い夏季や事故・渇水時などに備えています。各水系の水は相互に利用できるよう連結管で結ばれています。我々の住む杉並区南部に給水されている水は、朝霞浄水場で浄化された利根川系の水です。これから水の消費の増える夏場、限られた水を上手に大切に使いましょう。