第79回 神田川の橋(16)
次の橋は宅地化後に架けられた「中井橋」、橋の手前右岸には和泉中・和泉小に続いて日大鶴ヶ丘高のグランドと学校の施設が並びます。 100m 程でこちらは古くからある「番屋橋」(旧名は下の橋・番屋下橋)、近くに番屋があったのでしょう。和泉三丁目には番屋坂の通称地名もあります。次は丸太を一本渡していたといわれる「一本橋」で、右へ坂を上ると弘法大師像を本尊とする文殊院です。流れは緩く右へカーブして和泉村の村名に因む「和泉橋」、左岸のべんてん橋公園の先には弁天様の祠に由来する「弁天橋」が架かっています。この先真新しいコンクリート護岸がクランク型に曲がる正面に、木の生えた土の商い崖を見ることができます。このような眺めは井の頭線富士見ヶ丘車庫の対岸印刷局グランド下と区内2か所目になります。
第80回 神田川の橋(17)
次は「方南第一橋」す。「第二」はありません。方南橋に対して別の橋として表示したものでしょう。改修された護岸を進むと環七の手前左岸に大きな取水口がみえます。これは山の手水害の対策として設けられた環七地下の調節池のものです。大雨で川の水位が上昇するとゲートを開けて水を取り込みます。取水口の上には円形の取水施設の建物があります。環七通りに架かるのが「方南橋」です。地名によって付けられた名前です。環七を渡るとすぐ「上水橋」(旧名は、大橋、念仏堂橋、旧方南橋)です。この橋は環七が昭和5年堀之内から代田橋まで開通して現在の方南橋が架けられるまでは、方南橋と呼ばれていたと思われます。この橋の袂には古くから念仏堂があって、そこに大正11年入谷から東運寺(通称釜寺)が移転してきました。本堂の屋根に安寿と厨子王の釜茄でにまつわる鉄の大釜が載っているお寺です。
第81回 神田川の橋(18)
次の橋は「たつみ橋」(鈴高橋)小さな橋です。この先流れは中野区となって「向田橋」、橋の名前に「田」が付くのはこの辺りが水田だったことを示しています。次の橋は「神田橋」、比較的大きな道路が斜めに渡っています。次は「角田橋」、そして「陸橋」と続きます。小さな陸橋を渡ると都立中野養護学校の入口、養護学校専用の橋でした。その先は西永福からきた方南通りに架かる「栄橋」です。この名は中野区の旧町名「栄町」によります。この先右岸600m程は東京メトロの中野検車区で第三軌条方式で集電する地下鉄車両を地上で見ることができます。その途中左から善福寺川が合流してきます。ここから地下鉄の中野富士見町駅までの左岸は再び杉並区(和田)になります。線路が地下へもぐるところに架かる橋が「和田見橋」、地下鉄の駅前に架かる橋が「富士見橋」です。ここから先は杉並が終わり両岸とも中野区になります。
第82回 神田川の橋(19)
杉並区を離れると神田川は街中を流れる川となり、流域の様子も今までの田園風景とは異なってきます。流れに沿った人の通れる道のない所も随所にあって、水辺から離れた道を迂回しなければならなくなります。ここから先は気の付いた橋を見ていくことにします。富士見橋から先、流れは駅前の通りから100m程離れた北側を北東に進みます。中野通りに架かる橋が「寿橋」、地下鉄中野新橋駅のそばに架かる橋が「新橋」です。都心の新橋と区別するために「中野新橋」と称したところです。山手通りに架かる橋は「長者橋」で「中野長者」の伝説に由来します。この辺り左岸は中野区、右岸は新宿区です。この先流れは山手通りの3~400m東を北上し、新宿から成子坂を下ってきた青梅街道が「淀橋」で渡ります。淀橋はこの辺りの地名になっていました。坂を西に上れば中野坂上です。
第83回 神田川の橋(20)
新大久保から西進してきた大久保通りを渡すのが「末広橋」、橋の側には暗渠となっている桃園川の排水口があります。桃園川は天沼の弁天池を源とし、千川上水からの分水や小さな流れを集めて杉並区を流れてきた川です。神田川は東中野駅の東で中央線の線路をくぐった後、「小滝橋」で早稲田通りを渡し、左岸に下落合の下水処理場を見て、西武新宿線の下落合の駅前にいたります。ここは妙正寺川が合流(落合う)していたところですが、今は明治通りまで新目白通りの地下にバイパス水路が造られ神田川に合流しています。流れは高田馬場駅の北でJRと西武新宿線の線路をくぐります。この辺りはかつて染物屋さんが川で糊落しをしているのを見かけたところです。新目白通りを地名に由来する「高田橋」、明治通りを高田と戸塚をつなぐ「高戸橋」で渡すと、2kmほど岸辺は桜並木、見どころの多い散策路になります。
第84回 神田川の橋(21)
明治通りと都電荒川線が渡っていくと両岸は桜の並木、散策場所の多いところです。在原業平に因む「面影橋」、坂上の豊川稲荷社に因む「豊橋」、その下流左岸には肥後熊本の大名細川家下屋敷跡の新江戸川公園です。「駒塚橋」から北へ水神社前の細い急坂が胸突坂、その先椿山荘、江戸川公園と続きます。「大滝橋」は関口大洗堰の設けられていた所、神田上水の水はここで取水され江戸市内へ給水されました。「大滝」の名は堰からの余水が滝のように流れ落ちていたためです。上水は左岸の目白台、小日向台の崖下を後楽園まで開渠、その先は埋樋で通されました。発掘された現物は本郷の水道歴史館に展示されています。音羽通りを渡すのが「江戸川橋」、飯田橋駅前の「船河原橋」などと続き、左にカーブして「小石川橋」です。この橋の先で右へ別れていく日本橋川が、江戸幕府によってお茶の水の本郷台を掘り割って造られた現在の流れ以前の神田川の水筋です。
第85回 神田川の橋(22)
白山通りに架かる「水道橋」は下流で上水が掛樋で神田川を渡っていたためです。「お茶の水橋」は名水により、「聖橋」は湯島聖堂、ニコライ聖堂によります。「万世橋」の手前右岸のレトロな煉瓦の建物は旧万世橋駅舎です。この辺り川沿いにはビルが建ち並んでいて流れに近づけません。山手線をくぐった先、昭和通りを渡す「和泉橋」は近くの藤堂和泉守の屋敷、「美倉橋」は蔵が3つあったため、江戸通りを渡す「浅草橋」は橋の南にあった浅草見付による命名です。浅草橋の下流両岸には船宿の屋形船が繋留されています。神田川最後の橋は「柳橋」、風格を持つ昭和4年架設の橋です。この先で神田川は隅田川に流れ込みます。合流点は隅田川の両国橋からよく見えます。
水源の井の頭池から隅田川に合流するまで、環七辺りまでの杉並区内流域は豊かな自然にあふれていました。我々の住む下高井戸が恵まれている処だということを改めて感じさせられました。