第64回 神田川の橋(1)
神田川は三鷹市の井の頭池を源として杉並・中野・新宿・文京・千代田・台東・中央の各区を経て両国橋の近くで隅田川に注いでいる延長約25.3kmの一級河川(国が維持管理等を行っている河川)です。この川は武蔵野台地に谷を刻んで流れを作っていますが、人が水を求めて流れの近くに住むようになると往来のために道が作られ、川には橋が渡されるようになりました。現在神田川には140の橋が架けられています。橋の名前の付け方は、鎌倉橋、八幡橋など地名・寺社名によるもの、塚山橋など自然景観・地形によるもの、向陽中学に因んだ向陽橋など建造物・事業の記念等によるもの、弥生橋、幸福橋など地域住民の思いをこめたものなどに分類できます。戦後多発した山の手洪水の対策として河川改修の工事が、杉並地域では昭和39年から53年にかけて行われました。そしてそれまで自然豊かだった流れは、水面に触れることのできない真直ぐで深い掘割のような人工的な川になり、その姿は大きく変わってしまいました。以下、神田川の橋を杉並区内を主に上流から下流へとたどってみることにします。
第65回 神田川の橋(2)
神田川の川岸には井の頭公園を初め桜の木の植えられているところが多く、水面に枝をのばして美しい花を楽しませてくれます。井の頭池(別称は七井池、池底に水の湧き出している所が7か所もあるということから)の池尻から流れ出た神田川の最初の橋は、「水門橋」です、この橋は池の水門のところに架かる橋で、そばに「一級河川神田川」という碑があります。「よしきり橋」、「夕やけ橋」までは井の頭公園の中で、流れに沿った土の道を歩くことができます。この先からコンクリートの護岸になって「神田上水橋」、「あしはら橋」と続き、左岸に立教女学院の校舎が見えてくると井の頭線三鷹台駅前の
「丸山橋」です。この道を南へ行くと坂の途中右側に道路に面して赤土の崖があります。神田川流域の台地の縁には崖が沢山ありますが、人や車の通りの多い道で自然のままの土の崖を見ることができるのは珍しくなりました。駅の先で流れが線路の下をくぐって井の頭線の南側に出た先に「神田橋」があります。神田橋という名前の橋は、荒玉水道路に架かるもの、中野区南台のものと合わせて3つあります。
第66回 神田川の橋(3)
神田橋から流れの左側は杉並区となり、次の「みすぎ橋」からは両岸とも杉並区になります。「みすぎ」の「み」は三鷹、「すぎ」は杉並から由来しています。「みどり橋」の次は「宮下橋」で、その名は橋の北にある旧久我山村の鎮守久我山稲荷神社によるものです。この先「宮下人道橋」、「都橋」と続きます。久我山駅前に架かる「久我山橋」は、車の多い人見街道を渡しています。人見街道は甲州街道の脇往還(裏街道)といわれる古い道で、大宮八幡宮から西へ進み井の頭通りを浜田山駅入口の交差点で越えて三鷹、府中へと抜けています。次の「清水橋」の先右岸は藪で覆われた切り立った崖、左岸は井の頭線富士見ヶ丘検車区で停まっている電車を楽しめます。右岸崖上の印刷局グランドは、戦争の末期に1万mのB29を撃墜した最新鋭の15cm高射砲陣地があった所です。検車区ができる前線路と崖の間は水田で、電車の窓から四季折々こ稲作の風景を眺めることができました。検車区の東の外れには検車区専用の「無名の橋」が架けられています。次の「月見橋」のすぐ北に富士見ヶ丘の駅があります。
第67回 神田川の橋(4)
月見橋の先は「高砂橋」、「茜橋」、「むつみ橋」、「錦橋」、そして「やなぎ橋」、「あずま橋」と都営住宅団地に沿って橋が続きます、右岸の緑に囲まれた台地には浴風会があります。浴風会は関東大震災ののち身寄りのない老人のために設けられた高齢者福祉施設です。煉瓦造りの本館は東大安田講堂と共通するデザインで設計者は同じ内田祥三、東京都選定歴史的建造物に指定されています。環状八号線に架かる橋は「佃橋」です、橋の名はこの辺りの字名「佃(築田)」によるものですが、明治21年に玉川上水の佃橋が中の橋に改称されたときに、築田から変わったのだそうです。橋の北に駅のプラットホームが環八道路の上に跨る高井戸駅があります。この辺りの環八道路は昭和46年に完成していますが、古くから甲州街道と青梅街道を結ぶ重要な道(俗称・荻窪街道)でした。この旧道は曲がりくねっていたため古い佃橋は現在より下流の高井戸橋の辺りに架けられていたそうです。昭和初期の頃、荻窪と甲州街道の上高井戸などを結ぶバスが土煙を上げて走っていたと記されています。
第68回 神田川の橋(5)
井の頭線の高架橋をくぐった先環八道路の東側には、遠くから高い煙突の目立つ杉並清掃工場があります。「東京ごみ戦争」で大きな話題となったこの工場も、昭和57年に完成してから30年が経過し、今年の2月から工期5年の予定で建替工事に入っています。清掃工場の敷地には高井戸東遺跡があって、工場建設の前に行われた埋蔵文化財調査では当時最古とされた旧石器時代の局部磨製石斧などが出土しています。佃橋下流の両岸は桜並木で毎年桜まつりが催されます。河川改修が行われる前この辺りは高井戸堤と呼ばれる桜の名所で、昔の高井戸堤を描いたイラストタイルが路面にはめ込まれています。左岸の清掃工場との間には井の頭線の高架が聳え立っています。佃橋の次は「高井戸橋」、「正用下橋」です。「正用」はこの橋の北側一帯の字名からとられたものです。正用は中世の庄の常用田でこの辺りは古い集落だったことが推定されます。次の数十m下流で流路に斜めに架かっている「池袋橋」も字名によるものです。この北側台地には高井戸の大名主内藤家の屋敷がありました。