第6回 下高井戸八幡神社(1)
向陽商店街の先を道なりに左にカーブして300m程行くと、右側に下高井戸八幡神社の鳥居がみえます。この神社は下高井戸の鎮守で、祭神は応神天皇です。社伝によると、長禄元年(1457)太田道灌が江戸城を築くとき、工事の安全を願い鎌倉の八幡宮の神霊を勧請して創建したものといわれています。このとき柏木左右衛門尉に命じて造らせたので柏木の宮とも言われていました。現在の社殿は昭和34年に落成したものです。境内左手に末社として天祖神社・御嶽神社・稲荷神社・祖霊社(神社に功労のあった人を祀る社)が、右手には神楽殿・神輿庫があります。道灌にちなんで山吹も植えられています。神社の前を西へ約400m行くと鎌倉街道、鎌倉橋です。
第7回 下高井戸八幡神社(2)
八幡様の社殿の裏手は広い松林でその先は崖となって神田川の流れへ続いています。神田川沿いの台地や斜面には古代の遺跡が多くあって、塚山公園を初め住居跡が発掘調査されています。このようにこの辺りには古くから人が住み、特に神聖な地とされたこの場所に神社が祭られ村の鎮守になったものと思われます。境内には東京への野菜の供給地だったことが偲ばれる農協の高井戸節成キュウリの解説板や彰忠碑などが建っています。また村の人たちの力試しに使われた力石が3個草むらにおかれています。楕円形の石には30・38・45貫などのその重さ、大正15年9月の日付、下高原安藤某等の名前が切付(刻印)されています。
注)1貫は3.75kg
第8回 下高井戸八幡神社(3)
八幡様のお祭りでは神楽が奉納されます。今年の秋のお祭りのときには武内宿禰(タケウチノスクネ)が神宮皇后のお供をして出陣するという神楽が演じられていました。宮中に伝承された御神楽(ミカグラ)に対し、民間の神社に伝わる神楽は里神楽(サトカグラ)と呼ばれます。里神楽では神話や神社の縁起などが、黙劇形式で能楽風の神楽面や衣装をつけ、太鼓、笛などの囃子の下にひょっとこ、おかめの滑稽もからんで演じられます。昭和初期まで八幡様の宮司をされていた斉藤守高氏(現宮司の祖父)は、中村縫之助という芸名を持つ神楽の元締めで、鼓・太鼓・三味線に合わせて踊る「面芝居」の師匠でした。この面芝居は今は演じられていませんが、明治末から昭和初期にかけて流行ったそうです。
第9回 宿場町「下高井戸」(1)
江戸時代の下高井戸は宿場町でした。国道20号線は昔の甲州道中(甲州街道)で、徳川幕府が東海道、中山道、奥州道中、日光道中とともに主要街道として整備した五街道のひとつです。甲州道中は江戸日本橋から信州下諏訪で中山道に合流するまでの街道で、交通量はあまり多くなかったのですが緊急時に将軍を甲府へ避難させる道としての役割がありました。街道には、旅客の宿泊や荷物の輸送の人馬を備えた宿駅が設けられますが、高井戸宿は後に内藤新宿ができるまでは、日本橋から4里のところに位置する甲州街道の最初の宿場でした。宿駅が設けられた頃の下高井戸村はよい田畑の少ない貧しい農村で、とても一村で宿場を経営できる経済力がありませんでした。そのため高井戸宿は下高井戸村が月の前半をもち、後半は隣村の上高井戸村がもつ半月交代勤めの宿場でした。上高井戸が甲州街道沿いに今の世田谷区に入りこんでいるのはそのときに村域が拡張されたためです。
第10回 宿場町「下高井戸」(2)
宿駅には本陣(大名などの貴人の休泊所)、旅寵(一般の人達の宿泊所)、問屋場(伝馬や人夫などの提供)、高札場等の施設が設けられています。下高井戸宿のこれらの施設がどこにあったのかはっきりとした記録は残されていませんが、本陣・問屋場・高札場の位置は宿なかほどと記録されており、本陣は覚蔵寺の前あたりだったと記されています。現在の地図でみると、甲州街道の永福通りの別れ道のあたりから西へ鎌倉街道の入口あたりまで宿場の家並が続いていたようです。このように社寺はその位置が変わらないので場所を知る目印としてよく用いられます。下高井戸宿の本陣は冨吉屋(吉田姓)で、旅寵屋として鈴木屋、中田屋など、そのほかに木賃宿が2軒あったといわれています。なお上高井戸宿の本陣は武蔵屋で、環状八号線との交差点のあたりにあったそうです。
第11回 宿場町「下高井戸」(3)
甲州道中の日本橋から下諏訪までの間に宿場は44ありました高井戸宿の前の宿は内藤新
宿、次の宿は布田です。問屋の立場(詰所)には馬と人足が常置(定囲)されていて幕府御用は無料、その他は公定の駄賃で人や荷物を運びました。問屋はこれらの駄賃や旅寵などからの歩合で経費をまかなっていました。甲州道中はもともと交通量が少なかったうえに参勤交代で通る大名も信州の飯田藩、高遠藩、高島藩の3藩に過ぎず、その他に頻繁にあるいは定期に公的に通行したのは甲州勤番・お茶壷・八王子千人同心などでした。したがって宿場としての経営は難しく、内藤新宿ができてからは客が取られてとくに困窮した様です。茶壷道中では、将軍に献上する宇治のお茶が夏を涼しい山中で過ごしてから、甲州道中を江戸城まで運ばれました。ずいずいずっころばしの唄の「・・・茶壷に追われてトッピンシヤン・・・」の詞は、このお茶壷道中が来たので家へ逃げ帰って戸をピッシヤンと閉めた、とのことです。