第69回 神田川の橋(6)
池袋橋の下流は川岸から水面に枝を垂らす桜の並木が続き、次の「乙女橋」まで右岸は広い郵政のグランドです。この辺りは江戸時代徳川御三家の鷹狩場で一般人が立ち入ることのできない御留場でした。乙女橋は庶民の通れない御留橋で、時世が変わって音合わせでこの文字に改名された橋です。乙女橋には近くにあった三田(さんぜん)釜という涸れることのなかった泉に由来する、三田橋の旧名もありました。周辺には武蔵野の面影を残す雑木林が残されています。この先神田川の両岸には会社のグランドが並んでいましたが、時代とともにマンションや公園に変わってしまいました。左岸の三井の森マンション一帯は、つい先頃まで三井の運動場でした。次の橋は台地の上にあるお堂に由来する「堂の下橋」で、興銀のグランドだった柏の宮公園との間の坂の下を渡しています。その下流右岸には以前朝日新聞の社有地だった塚山公園があります。ここには、発掘当時武蔵野台地最古級といわれた旧石器時代の打製石器が発見され、また縄文時代中期の環状集落跡としても知られる下高井戸塚山遺跡があります。
第70回 神田川の橋(7)
堂之下橋の次は塚山公園の外れに架けられている「塚山橋」、この橋の欄干には公園の遺跡から出土した土器に因んだ可愛い飾りが付けられています。対岸の柏の宮公園の名前は、この辺りの小字名である「柏の宮」からつけられました。公園の林の中にある茶室は、若狭小浜藩主酒井家の新宿矢来町の江戸屋敷にあった茶室を移築した林丘亭です。次の「鎌倉橋」は塚山公園の東を通る鎌倉街道が渡る橋です。この鎌倉街道は、南へ上北沢で甲州街道を横切り、祖師谷、喜多見を通って宿河原で多摩川を渡り、鎌倉へと通じた道です。鎌倉橋を渡ってから北は、崖に沿って右に入り大宮八幡宮の大門通りをすぎて、中野から板橋へと抜ける道でした。現在は橋を渡ってから浜田山駅の方へ直進する道のようにみられていますが昔とは違っているようです。橋の南詰には「鎌倉街道」と記された古い石碑が建っています。この辺りの小字名は「鎌倉橋」です。ここから下流には地域の開発、河川改修に伴って新たに架けられた橋が続きます。川沿いの藤和緑地は古い流れの跡を整備してつくられた細長い公園です。
第71回 神田川の橋(8)
鎌倉橋からは「梢橋」、「藤和橋」と新しい橋が続きます、右岸に下高井戸八幡神社の鬱蒼とした森が見えてくると古くからの「八幡橋」です、この橋の名は言うまでもなく八幡様によるものです。下高井戸村の鎮守であるこの社は、1457年(長禄元年)太田道灌が江戸城築城の際に工事の安全を願って家臣の柏木左衛門尉に命じ鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したものです。このため神社は柏木の宮ともいわれています。河川改修前の八幡橋は現在の橋よりやや南に架けられており、今の橋には新八幡橋の別称もあります。昭和33年の地図を見ると流れの周囲は田圃で、地図には水田の記号が並んでいます。田圃に水をひく時期になると流れに堰が設けられて水位を上げ、南東方向へ向陽中の南を跡地が遊歩道となっている分流に水が流し込まれました。この堰によってできた深みは夏になると子供たちの絶好の水浴び場になりました。川岸には桜の木が植えられていて、春になると花をそして蛇の姿などを見ることができます。八幡橋から下流荒玉水道略を渡す神田橋までの右岸700m程は下高井戸三丁目です。
第72回 神田川の橋 (9)
八幡橋の下流には「睦橋」、「弥生橋」、「向陽橋」、「幸福橋」と新しく架けられた橋が続きます。それまで橋がなかったことは、この辺りの川沿いの開発が他所より遅かったことを示しています。向陽橋脇の護岸には1971年(昭和46年)3月改修工事完成と記したプレートが付けられています。「向陽」の名は向陽中学北東の台地名「向陽台」に因んだものです(校名ぱ明るく希望に満ち将来の発展を象徴…(学校要覧より)として昭和31年に下高井戸中学を変更)。これらの新しい橋の名前には地域住民の思いや願いが込められています。八幡橋と陸橋の間の川底に延長200m近くにわたって中洲のように自然の地層の露出している所があります。川底の様子は左岸からよく見えますが、灰色をした粘土層のようで表面がでこぼこしているのがわかります。この地層(杉並累層)は10万年から1万年前のもので、杉並の地下10m程の所にほぼ水平に横たわっているのだそうです。この古い地層は平成12年杉並区に住む研究者によって散歩の途中に発見されました。
第73回 神田川の橋(10)
向陽橋と幸福橋の間は50m位しかありません。向陽橋ができる前今の橋の少し下流に小さな木の橋が架かっていて地元の人が使っていたそうです。この辺りの左岸は崖が迫り、右岸は下高井戸運動場その南の向陽中、さらにその先玉川上水公園の崖の方にかけて平らな土地が続きます。その中を八幡橋の脇から神田川の分流が東へ向陽中のグランドに沿って流れていました(流れの跡は現在暗渠で遊歩道)。本流・分流の周辺は昭和33年の地図には水田の記号が記されています。向陽中の校舎の辺りには終戦前頃まで「お屋敷山古墳」といわれた小さな丘がありました。平成2年(1990年)に遺跡の調査が行われて、西から続く台地の残丘とされましたが、この台地の先端部から沖積低地にかけて旧石器時代、縄文時代、中世・近世の遺物が出土し、字名に因む蛇場美遺跡と命名されました。