第37回 お屋敷山
昭和15年の地図を重ねてみると向陽中学の校舎西側の場所には、前方後円墳?といわれた「お屋敷山」と呼ばれる小丘がありました。江戸時代初期の頃に甲州街道いなげやの辺りに幕府御家人の加藤某の拝領地があり、その別宅があったといわれている所です。 1990年の蛇場美遺跡の発掘調査では占墳に関するデータは得られませんでしたが、台地の縁に沿った溝状の遺構はその特徴から中世末から近世(江戸時代の頃)初頭にかけての在地有力者の居館的施設に伴う堀であった可能性が高いとされています。調査報告書には、遺跡から出土した16世紀中葉前後の遺物群と溝状遺跡は鎌倉街道に係わる交通の要衝を掌握するために、北条氏によって設けられた地域支配の拠点的施設に関するものであろうと記されています。お屋敷山が島状になったのは、町会北東部台地の先端部分が神田川の流路変更により或は人工的に切り離されたものと考えられます。
第38回 松ノ木遺跡・大宮遺跡
大宮八幡宮の裏手善福寺川の崖の上に大宮遺跡、対岸の舌状台地上には松ノ木遺跡があります。松ノ木遺跡は戦前から調査されていましたが、昭和50年に松ノ木中学の校舎改築に伴い発掘調査が行なわれ、縄文・弥生・古墳時代と途切れない集落跡を発見、特に縄文中期や古墳後期の住居跡が多数確認されました。そして住居跡など多くの遺構とともに大量の石器、縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵器などの遺物が発掘されました。この遺跡は大きな居住地で、弥生、古墳時代には台地全域を利用して集落が形成されていました。松ノ木遺跡には復元住居が展示されています。大官遺跡では、3基の方形周溝墓が発見されています。この墓跡は、弥生時代の松ノ木遺跡集落の権力者の墓と考えられています。1号墓の主体部や周辺からは被葬者が生前使用していたと思われる勾玉、小さいガラス玉や土器などの副葬品が出土しています。川の南面の快適な地には人が住み、対岸は聖なる祭祀の場として使い分けがされていたのです。
第39回 下高井戸周辺の遺跡
神田川や支流の善福寺川は流れの蛇行が多く、南向きの台地や斜面は古代の人々にとって快適な住み場所でした。鎌倉街道の神田川にかかる鎌倉橋から下流へ荒玉水道路の神田橋の辺りまでの約1kmの両岸には、次のように地域の歴史を知るために欠かせない「埋蔵文化財包蔵地」(=遺跡)が10箇所ほどあります。塚山遺跡対岸の柏の宮公園の南の部分には堂の上遺跡(浜田山2丁目)が、さらにその東北の鎌倉街道の西側と東側に2箇所(鎌倉橋上遺跡)あります。浜田山1丁目にはその他にそこから鎌倉街道を東に200mほど入った崖の上及びその北東約300mに遺跡があります。下高井戸3丁目には下高井戸八幡神社の東の台地上と蛇場美遺跡とがあります。神田橋から荒玉水道路の坂を北へ上った両側には下村遺跡があり、永福小学校でも遺跡が発掘されています。これらの遺跡は、旧石器、縄文、古墳、中世、近世の各時代の包蔵地、集落、住居跡、溝状遺構などで、多様な石器、土器から陶器などが多数土しています。
第40回 力石(ちからいし)
農作業は今のように機械化されるまでは人の力が頼りでした。つまり力持ちの人が優れた働き手として認められ、尊敬されました。そして神社の祭礼などの際に娯楽や競技として石を持ち上げて力自慢が競われました。このときに使われたのが力石で、多くは楕円形か丸い形をした石で、20~50貫など様々な重さのものがありました。力石には重量、持ち上げた人の名前、年月日などが刻まれ神社に奉納されました。わが国における力石の起源は、中世の民間信仰に基づく石占いからといわれ、農作の豊凶を占ったと言われています。下高井戸八幡神社には、境内左手稲荷社の鳥居の脇に3個の力石が置かれています。それらの石には、30・38・45貫とその重量、大正15年9月などの日付け、下高原安藤某などの名前が刻まれています。大宮八幡宮では赤門(北門)のそばに力石が14個並べられています。石には27貫から50貫に及ぶ重量、明治・大正年代の日付、松ノ木、和泉や羽根木、青山原宿などの地名と人の名前が刻まれています。