第74回 神田川の橋(11)
次の橋は荒玉水道道路を渡す「神田橋」です。神田橋の名は7番目の橋に続いて2つ目です。荒玉水道道路は、昭和初年多摩川の水を杉並から板橋へかけて給水するために地下に大きな送水管を埋設した水道専用の道路です。砧浄水場から妙法寺裏までの約11kmを2間半(4.5m)の幅で一直線に貫いています。戦後路面が舗装される前は砂利道で、冬には霜柱がたち泥んこ道を歩いてきた長靴を駅ではきかえて電車に乗ったそうです。当時は家も少なく春には神田橋から上水の桜の花がピンクの花の列となって眺められました。この先右岸一帯は東京電力のグランドでしたが、東日本大震災の後公園にするため杉並区が買い取りました。その外れの所に架かる「かんな橋」の先右岸には都立中央ろう学校、左岸には永福中央公園があります。これらの施設ができる前本流と八幡橋からの分流の流れるこの辺りは水田でした。
第75回 神田川の橋(12)
かんな橋の南の崖下(大慈会教団の庭の辺り)には昭和30年代の地図を見ると、池の印が
記されています。この辺りにはかつて大正末に開園した吉田園という遊園地があって、湧水を利用した庭園やプールなどが設けられ小学校の子供たちの遠足や有名人の来園でたいそう賑わったそうです。武蔵野台地には豊富な地下水があり神田川の崖線の下には各所に湧水が見られましたが、ここもその一つです。湧水は当町会の坂下辺りにも見られ、その水のたまった小さな池が庭先にあったという話を聞くことができます。かんな橋の次は、下高井戸駅の方から永福町駅へ続く永福通りに架かる「永福橋」です(大橋・二子橋・永福寺橋の別称あり)。この辺りは永福寺村で、その名は北へ坂を上った右手の古刹永福寺に由来しています。永福通りは、北の方大宮辺より多摩川へ出て二子の渡しをこえてゆく道で“相州道”といわれた古い道です。
第76回 神田川の橋(13)
永福通りを渡ると次の橋は「ひまわり橋」です。この左岸一帯300mほどは養魚池だった所です。右岸は永福南小学校で永福小学校と統合することになっています。校舎を背景に川沿いの壁には、デザインされた絵と短文の書かれたタイルが10枚はめ込まれています。短文の頭文字をつなげると「かんだがわのおもいで」となります。小学校南側の崖の上は明治から昭和初期にかけて都心から移転してきたお寺の並ぶ「永福の寺町」です。次の橋は永福学園の前に架かる「永高橋」で、この名は以前ここにあった都立永福高等学校(略称「永高」)に因んだものです。次の橋は「明風橋」、その上流左岸の川に向かって突き出た崖は竹林、対岸には雑木林の「どんぐり緑地」があって河川改修前の様子を偲ばせてくれます。流れに沿ったこの辺り一帯は水田だったところですが、時代とともに地域が変化していく様子を感じます。
第77回 神田川の橋(14)
流れに沿った道が井の頭線の鉄橋の下をくぐって進むと「蔵下橋」です。この「蔵」は、右岸の崖上にあった幕府の焔硝蔵(武器火薬庫)のことです。ここは明治になってから陸軍の火薬庫となり、昭和になって払い下げられて明治大学和泉校舎と築地本願寺和田堀廟所の現状になりました。橋のある辺りは和泉村の「御蔵下」という小字名の所で、橋を通る道は旧所沢街道と言われた古い道、橋も明治より前は「上の橋」でした。この先歩道は上りになって井の頭通りの「神泉橋」です。この道は神田川を築堤で渡しているので、流れに沿った歩道は上って下りになります。井の頭通りは武蔵境や東村山などの浄水場で浄化した東京の水道水を運ぶ水道管が通っている道です。この道の旧名「井の頭街道」は荻窪の荻外荘に住んでいた近衛文麿の命名で、昭和13年10月の日付の石碑が和泉給水所の塀際に建っています。
第78回 神田川の橋(15)
井の頭通りを渡る神泉橋を過ぎると橋に並行して太い水道管が川を横切ります。この辺りは両岸から桜が水面に枝を垂らし花見の場所、右岸には和泉中学校・和泉小学校が並び、左岸の流れからやや離れた道の崖上に龍光寺があります。このお寺の大きな鐘は有名ですが、大晦日に町内に聞こえてくる除夜の鐘の音にはこの鐘も含まれていることでしょう。「栄泉橋」、「宮前橋」(旧名は中の橋、龍光寺前橋、熊野橋)と続きます。「宮前」の名はお宮の前にあることによります。坂道を挟んだ龍光寺の向かい側は和泉熊野神社です。神社から下流方向の道沿いにこじんまりとした社殿の熊野神社の境内末社貴船神社があります。狭い境内に和泉村の名の由来になったと伝えられる「御手洗の小池」がありますが、涸れることのないと言われたこの池も今は水のない空池です。これらの社寺の前から流れの周辺はかつて水田だったところです。