第46回 焔硝蔵地跡
現在明治大学和泉校舎と築地本願寺和田堀廟所のある辺りには、江戸時代に幕府の焔硝蔵がありました。焔硝蔵とは鉄砲・弾薬等の倉庫(武器火薬庫)のことです。甲州街道はもともと幕府の軍事道路としての性格を持っていたので、沿道にこのような施設が設けられたのでしょう。宝暦年間(1751~64年)に設置され、62,000㎡の広さで鬱蒼とした森になっていました。幕府同心3人が常駐するほか、周辺の村に3人の課役が課せられていました。明治維新のとき官軍に接収されて、ここにあった武器弾薬は幕府の江戸防衛のためにではなく、官軍によって上野彰義隊や奥州諸藩など幕府軍の平定に使用されました。明治になって陸軍の火薬庫として使用されるようになりましたが、大正末期に廃止され敷地は
払い下げられて現在のようになりました。関東大震災のときには暴徒が火薬庫を襲うという流言があって、地元の人が防衛のために竹槍を持って集まるというようなこともあったそうです。なお、1913年(大正2年)京王電車が開業した時には「火薬庫前」という駅名でこの付近に駅が設けられました。
第47回 鎌倉街道
甲州街道の上北沢駅前通りへ入る交差点に「鎌倉街道入口」の表示がありす。ここから北へ浜田山駅南行のすぎ丸バスが走っている道が「鎌倉街道」です。この古い道は、神田川にかかる鎌倉橋を渡った先で崖に沿って右(東の方)へ入り、西永福駅の西を通って井の頭通りの北を大宮八幡宮の前へと続いていました。資料では、「大宮八幡方向から北沢を通って鎌倉へ向かう古道、鎌倉道(かまくらみち)」と記されています。鎌倉街道は鎌倉往還ともいわれ、12世紀末に鎌倉幕府が開設されて鎌倉と各地とを結ぶために設けられた中世の古道です。従って特定の路線のことをいうものではなく、鎌倉へ通じる道の総称で各地に幾つもあります。特に東京周辺には鎌倉街道という名前の道が数多くありました。主要路線には、東海道筋の京鎌倉往還、新田義貞が鎌倉攻めの際に通った武蔵路などがあり、上野、下野、信濃、甲斐、下総、上総、奥州などに通じていました。鎌倉街道の道は現在も道路として使用されているものがあり、また痕跡として保存されているものも各地にあります。
第48回 築地本願寺和田堀廟所
甲州街道に沿った明治大学和泉校舎の西側に広い墓地があります。ここが築地本願寺和田掘廟所です。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により築地本願寺は焼失しましたが、再建に当たって境内の墓地を移転する必要にせまられ、和田堀の陸軍省火薬庫跡地の払い下げを受けて1934年(昭和9年)築地本願寺の墓地と仮本堂を移し和田堀廟所が設けられました。その後太平洋戦争による空襲で建物は全焼しましたが1953年(昭和28年)に再建整備されています。ここは著名人の墓所としても有名で、入口を入ったすぐ左
手には1964年(昭和39年)に内閣総理大臣となり1974年のノベル平和賞を受賞した佐藤栄作、そして、樋口一葉・海音寺潮五郎(作家)、九条武子(歌人・社会事業家)、中村汀女(俳人)、古賀政男・服部良一(作曲家)、一万田尚登(日銀総裁)、藤原銀次郎(実業家)、水谷八重子(女優)、吉葉山(大相撲横綱)‥‥‥。かつては玉川上水の流れに沿い豊かな自然に恵まれた公園墓地として知られていました。近くを歩くとお彼岸には線香の香りが道にまでとどき、春にはソメイヨシノが美しい花を咲かせます。
第49回 火の見櫓
すぎ丸バスさくら路線の停留所に「火の見櫓」というのがあります。火の見櫓を辞書で引くと「常時または火災の時に登って、その遠近・方向を望み見るやぐら。望火楼。」(広辞苑 第六版)と記されています。火災が発生すると火の見番は半鐘を打ちならして人々に火災の状況を知らせました。半鐘のならし方で出火元の遠近や鎮火など火災の状況を知ることができました。火災のときに重要なのは、早期発見・早期消火です。消火の能力が弱かった江戸の昔にはとくに早期発見が重要視され、そのため町に火の見櫓・火の番小屋が設けられていました。その後東京が近代化されるにしたがって消防の施設や設備が整備され、早期発見の見張りは消防署の望楼となり、そして出火の通報は119番や機器によるものへとかわってきました。甲州街道の下高井戸にあった火の見櫓は、今では古い写真とバス停の名前でしか偲ぶことができなくなっています。
第50回 トンボ取り
夏休みに子供たちがやった遊びの一つにトンボ、セミ、チョウなどの虫取りがありました。なかでも男の子に人気があったのがトンボ取りでした。よく取れたのはシオカラトンボでしたが、体長10cmをこえるヤンマの類が取れると鼻高々でした。赤くなったアキアカネは街なかには秋口になると群れをなして姿を見せました。取ったトンボはお菓子の空き箱に入れて夏休みの作品として提出したりしました。トンボの取り方も色々あって、竹竿の先にトリモチをつけたもち竿を使う方法、糸の両端に空気銃の弾などの重りをつけ空に投げ上げて糸にからませる方法、捕虫網を使う方法などで、洒落たものとしては竹竿の先に糸で雌のトンボを結びつけ雄のトンボを誘って取るトンボ釣りなどもありました。水の中に産卵されたトンボの卵は春になると孵化してヤゴになり羽化して成虫になりますが、冬も防火用水として水を湛えた学校のプールにはヤゴが棲んでいます。プール開きの前にはヤゴ救出大作戦が行なわれ、高三小のデータでは赤トンボ型のヤゴが最も多く、次いでシオカラトンボ型、ヤンマ型で、イトトンボのヤゴもいたそうです。
第51回 セミ取り
日本の夏を象徴する音にセミの鳴き声があります。東京で最もなじみのあるのは茶褐色で暑さをいっそうつのらせるようにシージーと鳴くアブラゼミでしょう。そしてミーンミンミンミーンと鳴く青い模様の頭と透きとおった翅をもつミンミンゼミもその一つです。ブクブクオーシーツクツクと鳴くツクツクボウシはやや小型ですがこれが鳴き始めると早くも夏休みは後半となっています。夕方になってカナカナカナと情緒ある鳴き声を響かせるヒグラシ(カナカナ)は夕ご飯と母親の顔を思い出させます。鳴くのはオスだけで、発
音器が腹部にあるのでお腹を押してやると音が小さくなります。セミの一生は、アブラゼミの場合卵から孵った幼虫が木の根に取り付いて地下生活を2~7年、そこから這い出して抜け殼を残し羽化して成虫になってからの寿命が10日前後と短命なことはよく知られています。セミ取りは捕虫網を使うのが一般的です。太平洋高気圧の張り出しで青空のもとそよ風が吹くのが東京の夏ですが、とくに風の強い日にはセミが木の下の方にとまるので素手で簡単に取ることができます。上水公園には緑が多くセミもたくさん鳴いています。