第22回 下高井戸の地形
我々の住む街は甲州街道から北に神田川の流れへと下っていく斜面、その下の平地の部分にあります。今のような住宅地になる前、下高井戸が農村だった頃は雑木林と畑や田んぼだったところでした。東京の地形は西の奥多摩の山地から東へ山の手の丘陵・台地、そして下町の低地(沖積平野)へと連なっていますが、杉並区はその台地の部分、武蔵野台地の東の端に当たるところにあります。武蔵野台地は、基盤の地層の上に古東京湾の海が引いた後にたまった礫層がのり、その上は箱根火山や富士山の火山灰に由来する関東ローム層で覆われています。庭の黒土を掘るとその下にローム層の赤土が見られます。武蔵野台地では所々にその礫層から地下水が流れ出しています。杉並区では標高50m辺りの場所に大きな湧水があって井の頭池、善福寺池、妙正寺池などをつくり、そこから川が流れ出して流域からは湧水が多く見られました。
第23回 神田川(1)
神田川は武蔵野市の井の頭池を水源として区内を東へ流れ、途中善福寺川、妙正寺川などをあわせて、中央区の柳橋で隅田川に流れ込む25.3kmの一級河川です。古くは後楽園の近くで九段下の方へ曲って直接東京湾に注いでいましたが、1660年(万治3年)江戸幕府は今の御茶ノ水駅のあたりの神田駿河台を掘削して現在の流路に変え、流域の開発とともに江戸城の外堀の役目もかねることにしました。この辺りでは下高井戸の北、浜田山・永福との境を東西に流れています。武蔵野台地に地下水が豊富だった頃は流域の湧水から水量をふやし、きれいで豊富な流れを誇っていた川です。江戸時代には文京区関口台下の大洗堰から取水して神田上水堀へ流し、飲料水として使われていました。昭和40年の河川法改正で川全体を神田川というようになるまでは、水源から上水取水地点の大洗堰までが神田上水、そこから飯田橋付近までを江戸川、その下流が神田川と呼ばれていました。
第24回 神田川(2)
神田川は古くから人との係わりがありました。水辺には古代から人が住み住居遺跡がみられます。水の便のいい川沿いの場所は生活に適していました。この近くでも塚山遺跡など多くの住居跡が発掘されています。昭和初期の頃には遺跡から石器や土器の破片を見つけることができたそうです。台地の中を流れる神田川は周辺の灌漑用水としても貴重な水源で、下高井戸辺りの水田は神田川に沿った所にありました。しかしその多くは湿田で収量の少ない下田、今の向陽中学の辺りはアシ原で稲も作られませんでした。昭和30年代の頃からは流域に住む人が増えて、生活排水のために川の水が汚れて稲作ができなくなりました。今まで遊水池の役目をしていた田んぼがなくなって、大雨が降るとすぐに水があふれ山の手都市型水害が多発しました。そのため川は大改修されて、三面コンクリート張りの真直ぐで深い掘割のような川になってしまい、子供たちの川遊びもできなくなりました。
第25回 神田川の分流
下高井戸八幡神社の裏、神田川の八幡橋の南側に崖に沿って東の方向へ遊歩道がのびています。この道は神田川の分流(用水路)の跡で、向陽中学校のグランドに沿ってさらに南東方向へすすみ、東電総合グランド(注)の南側を聾学校の脇の方へと続いています。遊歩道はそこで左折して神田川につながっていますが、古い資料には「その先は和田掘内村に入る」と記されています。今は遊歩道でその痕跡を偲ぶのみですが、このあたりで農作がおこなわれていたころは、このような分流が本流を挟んで随所にあり水田に灌漑用水を供給していました。春の耕作の時期になると、本流に堰が設けられて分流に水を流し入れました。そのときにできる堰の上流の深みは、子供たちの絶好の水遊び場でした。これらの分流は「コガワ」と呼ばれ、本流は「オオカワ」と呼ばれていたそうです。
(注)現在の「おおぞら公園」
第26回 子供の遊び-冒険
子供たちは大人が禁止するような危ない遊びに夢中になるものです。昔は少々の怪我をしても他人の責任にするようなことはなく、自分の責任で処理していました。子供のけんかに親が出てくると皆からはやし立てられ、かえってその子の立場が悪くなりました。日常の子供たちの遊びの中でいじめや危ないことがないよう、年長の子が面倒をみていました。八幡様の森の木登りは高さと度胸を競う冒険でした。神田川には用水路から流れ込む大きな排水口があって、そこへもぐりこむ探検も冒険でした。畑のトマトを盗んで食べるのも冒険です。当たると痛いどんぐりの実を弾にしたゴム鉄砲の打ち合いもしました。コーラの王冠をつぶして投げあう遊びがあって、その王冠を酒屋へ貰いに(取りに)いって追いかけられるのも冒険のひとつでした。そんなことをしながら子供たちはみな元気に育
ち、世の中のルールやものの程を知り、社会に適応できる分別のある大人に育っていったのです。
第27回 川の中の生き物
今から40~50年前の頃までは、この辺りには農家が点在し田んぼや畑のある自然に満ち溢れたところでした。初夏の頃には八幡様の裏手の神田川に田んぼに水をひくための堰が設けられ、分流のコガワに豊かに水が流されました。これらの流れには、鮒、鯉、泥鰌、鰻、鯰などの魚、ミズスマシ、ゲンゴロウ、トンボなどの昆虫類、そしてザリガニもいて子どもたちの遊びの相手をしてくれました。水草も流れの中でゆれていました。この生き物たちは水量の多少や流れの強弱に応じて、それぞれに住み分けていました。川に沿って養魚場や釣堀もありましたが、今では善福寺川沿いの和田堀公園に釣堀がひとつ残るだけになりました。その頃の子どもたちは、このような豊かな自然の中で有り余る時間を贅沢に使って過ごしていたのです。