第28回 東京の空襲(1)
太平洋戦争(1941(昭和16)年12月8日~1945(昭和20)年8月15日)のとき、東京は米軍機の空襲により一般市民が大きな被害を受けました。①最初の空襲は、開戦後4ヶ月となる昭和17年4月18日昼過ぎのことでした。東方洋上700哩の空母ホーネットから発進したB25爆撃機13機が東京を襲い、屋根すれすれの低空から爆弾・焼夷弾を投下しました。この急襲により東京で死者39名の犠牲者がでました。他の3機は名古屋・神戸を攻撃し、何れも中国の飛行場に向かいました。②昭和19年7月6日サイパン島が陥落し、B29が11月1日に初めて東京へ偵察飛行をしました。本格的な空襲は、11月24日正午過ぎのB29 80 機による武蔵野町(現武蔵野市)の中島飛行機武蔵製作所への高高度精密爆撃からです。この作戦はその後も続けられ一般住宅に被害がでましたが、上空の強風と厚い雲により目標への成果を上げることは出来ませんでした。そのため大量の焼夷弾投下に変え、3月10日の下町無差別爆撃となりました。
第29回 東京の空襲(2)
市街地へ低空からの無差別焼夷弾爆撃に作戦を変えた米軍は、③3月10日深夜にB29 160機による東京下町の住宅密集地域に焼夷弾の濃密集中爆撃を行ないました。 1000~5000mの低空から投下した焼夷弾による火は、折からの強風にあおられてたちまちの内に燃え上がり一般市民の死者10万人という大惨事になりました。米軍は攻撃目標は街工場で、そこに人家があったのだと言っています。手の届くような低空を地上の炎の色を映した真っ赤な機体のB29が飛び回っていました。その後4月13日と15日にも山の手地域を中心に大規模な空襲が行われ、その頃からは硫黄島のP51戦闘機や空母の艦載機による銃爆撃も加わるようになりました。5月24日1時過ぎ東京南部と城南地域に、翌25日深夜から東京中部と西部に熾烈な焼夷弾攻撃が行われ、東京の中心部は大部分が焼失して米軍の爆撃対象から外されました。④6月頃から目標は地方の中小都市になり、一般市民に被害が及ぶ空襲は終戦まで日本全土に続けられました。
第30回 東京の空襲 杉並・下高井戸(1)
戦争前昭和初期の杉並は、中央線など鉄道駅周辺に開発された住宅地や昔からの街道筋等に家がありましたが、その他は主に田畑や林でした。しかし区内その近辺には軍の施設、中島飛行機の工場(荻窪製作所、武蔵製作所)やその下請け、甲州街道や中央線・京王線・井の頭線等の交通機関等々米軍の攻撃目標となるものが多数ありました。高射砲陣地は大宮公園など区内4箇所にあり、久我山にはわが国最強の15cm高射砲が設置されていました。杉並区へのB29による爆撃は、昭和19年11月24日の中島飛行機荻窪製作所を目標とした天沼、沓掛町地区が最初です。その後も中島飛行機を狙ったそれ弾等による民家の被害が頻発し、4・5月の杉並地区への大規模な市街地爆撃にと続きました。主として投下されたのは500ポンド収束型M69という小型の油脂焼夷弾38個を二段に収めた親子焼夷弾で、空中でバラバラになって落下しあたり一面を火の海にしました。 B29はその他住宅街にも焼夷弾と共にコンクリートを貫通する高性能爆弾を投下し市民を殺傷しました。
第31回 東京の空襲 杉並・下高井戸(2)
下高井戸近辺への大規模な空襲は、5月23・24、25・26日の夜でした。下高井戸駅周辺と駅南側の松原・赤堤、永福町駅の南や北側が焼失、その火の手は向陽橋の先までのびてきました。神田橋周辺の水田にも焼夷弾が落ちましたが、三丁目町会の区域は被災しませんでした。永福の寺町から甲州街道沿いには点々と火災が発生し、今のいなげやの場所も焼けたところの一つです。永福町の井の頭線の電車の車庫が全焼したのも24日のことでした。火に追われた人々が明大前の方から玉川上水沿いに町会の脇を通って避難をしていったそうです。このとき投下された爆弾(不発弾)が戦後40年近くたってから高三小の校庭で見つかり、住民が退避して処理されたことがありました。撃墜されたB29が桜上水駅の南側にあった三井牧場近くの麦畑に落ちて見に行ったそうです。杉並区の空襲による被害は、死者181名、負傷者611名、家屋全焼11,840棟、被災者4万3千名以上にのぼると言われています。