第41回 東京オリンピック(1)
第18回夏季オリンピック大会は、1964年(昭和39年)10月10日から24日の15日間東京で開催されました。神宮の国立競技場をメイン会場としてわが国で初めて行なわれたオリンピック大会は、国家的事業として競技施設、幹線道路・鉄道の整備等大きな予算が組まれ、東京の街が大きく変貌する機会となりました。この界隈でも甲州街道や環七道路が拡幅整備されました。なお、東京でのオリンピック開催は、日中戦争の勃発そして第二次世界大戦へ発展するという状況で返上することがなければ1940年(昭和15年)に第12回大会として開催されるはずでした。
オリンピックの開会は、選手入場、開会宣言などに続いて聖火の点火の手順で行なわれます。ギリシヤから日本までリレーされ日本国内を4つのコースで東京に到着したオリンピック聖火は、当時町会の18班に住んでいた鈴木久美江さんによって最終ランナーの坂井義則さんにリレーされ、聖火台に点火されました。近所の人達はこの大役を果たした鈴木さんにお祝いをしました。
第42回 東京オリンピック(2)
オリンピック陸上競技のフィナーレを飾るマラソンは、陸上競技最終日の10月21日、神宮の国立競技場から甲州街道を調布市飛田給で折り返す42.195kmのコースで行なわれました。日本のホープ円谷は30kmの地点で3位、35kmを過ぎた地点で2位と、下高井戸のあたりで順位を上げて通過していきました。近所の人たちは整備された甲州街道に出て、アベベの1位、円谷3位、そして君原健二8位、寺沢徹15位の成績となった健闘に熱烈な応援をしました。
東京オリンピックでの日本選手の活躍は目覚しく、金が体操5個、ボクシング1個、レスリング5個、ウェイトリフティング1個、柔道3個、バレーボール1個の合計16個(米・ソに次ぐ3位)、銀5個、銅8個のメダルを獲得しました。アジアで初のオリンピックの様子は、宇宙中継を含むTVでの中継が行なわれ「テレビオリンピック」のはしりともなりました。
第43回 歳の市
年の暮れ師走ともなると1年をしめくくり、新年を迎えるための準備が始まります。年末には正月用の飾り物や雑貨類を売る市として歳の市(年の市・歳末市)が開かれます。そこで売られる品は、門松、注連飾り、三方などの正月用品、そして縁起物などです。ここ下高井戸の界隈にも桜上水の駅前通りや甲州街道の交差点の角に、門松などの正月用品を売る店が出て年の暮れの情緒をかもし出しています。その他に12月には農家相手の古着・農具の市から始まったものと思われるボロ市が、この近辺でも世田谷代官屋敷周辺で「世田谷のボ戸市」、練馬武蔵関本立寺の「関のボロ市」などが開かれます。本来は農機具や臼・杵などが売られるものでしたが最近はご存知のように骨董品から各地のふるさと物産などまでが売られ、賑わいをみせるようになっています。歳の市はもともとは毎月日を決めて神社やお寺に立つ縁日市の年内最後の納めの市でした。近年はデパートなどで大歳の市などとして年末の売り出しが行なわれています。
第44回 一里塚
古くから主な道路には里程や人馬駄賃の目安とするために、一里ごとに塚を築いていました。起源は中国に由来し、わが国では室町時代からあったとされています。江戸時代徳川家康によって五街道を初めとして主要な道路にこの「一里塚」が整備されました。塚は道の両側に5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)を基準として土を盛り上げて築かれ、その上にエノキ、松などが植えられました。甲州街道にも一里塚がつくられて、この近くでは日本橋の基点から4里目となる一里塚が、鎌倉街道入口の付近に設けられていました。鎌倉街道入口交差点の横断歩道の先、甲州街道南側の歩道脇に区教育委員会が建てた「甲州街道一里塚跡」の説明板があります。なお3里目の一里塚は笹塚の、5里目は仙川の辺りになります。都内で現存している一里塚を、日光御成道(通称・岩槻街道、本郷通り)の「西ヶ原一里塚」(北区・東京メトロ南北線西ヶ原駅の北方)で見ることができます。
第45回 新一里塚
下高井戸の甲州街道には鎌倉街道入口交差点の所に「甲州街道一里塚跡」があり、杉丸バスさくら路線の「一里塚」という19番のバス停がその東約0.8kmのスーパーいなげやの向し側にあります。バス停の方の一里塚は、明治3年に新たに新宿を基点とした一里塚がつくられ、新宿から2里を示す新一里塚が現在の荒玉水道路の場所に築かれました。このとき建てられた石の標柱は、昭和2年荒玉水道路の工事のときまではそこにあったそうです、なお新一里塚の標石は、世田谷区給田に新宿から3里目のものが元の位置に近い場所に移され現存しています。記録によると標柱は芝生に覆われた3m程の塚の上に建てられていました。
日本橋を基点とした甲州街道は、1604年の開設当初には江戸城の北側を通っていました。その後1703年に発生した南関東大地震により江戸に地崩れ、大火が発生し(地震火事)、北コースが廃止されてやや遠回りとなる江戸城南側を通るコースに変更されました。北回りコースは、日本橋―呉服橋―竹橋―田安門―四谷見付へ、南回りコースは、日本橋―呉服橋―和田蔵門―日比谷御門―半蔵門―四谷見付となっています。