第58回 玉川上水の橋 (1)
玉川上水に水が流れていた頃、主要な道には橋が架けられていました。流れが暗渠となったいま橋はなくなってしまいました。町内の東南端、向陽商店街から桜上水駅に向かう坂を上った所に「加藤橋」がありました。江戸時代この近くに加藤伝左衛門という旗本の屋敷があったからです。別名の御蔵橋も加藤家の蔵があったことによります。昭和2年荒玉水道路に架けられた橋は「玉橋」です。「玉」は玉川上水の玉であり、多摩川(玉川)の玉でしょう。東へ進むと「美宿橋」(古くは孫兵衛橋)、小字名の蛇場美と宿との間に架けられているからです。次の「小菊橋」は大正末に開園した遊園地の吉田園のために架けられた橋です。煉瓦造りの橋の名残が見られます。上水は町会の辺りは崖ですが、この辺は堀になっていて低いところに流れがあったことがわかります。永福通りに架かる橋は「下高井戸橋」で、残された欄干の親柱に橋の名前を見ることができます。このすぐ上流にあった永泉寺橋は、昭和6年に永福通りを真直ぐに下高井戸橋が架けられ、その後廃止されています。
第59回 玉川上水の橋(2)
町内の西南端、覚蔵寺の西側を高三小へ行く道に「昭和橋」(昭和2年に改修)がありました。覚蔵寺の東にあった高三小が現在地へ移転したのは昭和9年です。この橋の近辺には桜の木が植えられています。宗源寺西側の道は下高井戸八幡神社へ通じるので「八幡橋」(ヤワタ橋)、近くに旅籠の中田屋があったので中田屋橋ともいわれました。鎌倉街道に架けられていたのは「旭橋」です、この名前はすぎ丸バスの停留所名で残っています。この先西へ100mほどで首都高速下の道になります。歩道橋にその名を残す「庚申橋」は、明治の中頃まで近くの庚申塔にちなんだ堂之下橋、堂下橋と言われていましたが、現在堂の下の名前は神田川の橋に譲られています。環八と交差する「中の橋」(交差点の名前として残る)は、明治21年に佃橋から字名の中久保に由来する中の橋となりました。なお、江戸期には旭橋は下高井戸村「上之橋」、八幡橋は「中之橋」、加藤橋は「下之橋」と呼ばれていたと記されています。覚蔵寺の向い側には下高井戸宿の本陣がありましたから、この辺りは村の中心だったのでしょう。
第60回 玉川上水の橋(3)
永福通りに架かる下高井戸橋の下流には、大正11年に移転してきた寺の名前による「託法寺橋」、その先の築地本願寺和田堀廟所には「極楽橋」が架けられていました。昭和5年架橋の極楽橋は欄干に青銅の擬宝珠のついた花嵐岩製の太鼓橋で、今も廟所正面参道の池に架け直され使用されています。明治大学和泉校舎へ入る「明大橋」は昭和9年に架けられました。この2つの橋は、それぞれの専用の橋です。かつて焔硝蔵へ入るための橋「御蔵御通行橋」は明大橋の辺りにあったようです、この先新宿寄りには、「九左衛門橋」、「代田橋」が架けられていました。環八交差点の中の橋から上流方向には、上高井戸天神社(昔は第六天神社)の参詣道に架けられた「天神橋」、その先には馬橋・鍛冶屋橋といわれた甲州街道から五日市街道の春日神社へ通じる古道に架かる「昌栄橋」、次の「浅間橋」は今は高井戸天神社の境内末社となっている近くにあった富士浅間神社によるものです。浅間橋の先から上流は現在も開渠です。高速道路下となったこれら上流方向の橋の名は、歩道橋や交差点の名前で残っています。
第61回 久我山の高射砲陣地
太平洋戦争のとき、杉並区内には空襲に備えるため高射砲陣地が久我山、大宮公園、下井草、西荻の4か所に設けられていました。1944年(昭和19年)11月24日から昼間に中島飛行機武蔵製作所や荻窪製作所などを爆撃したB29は、11,000mの高々度で飛行してきました。当時日本の高射砲は、最大射高8,000mの75mm砲ではるか下方で炸裂するだけ、日本の戦闘機が午後の陽の光を受けてキラキラと機体を輝かせながら迎撃していたのを覚えています。終戦まぢかの1945年7月、現在国立印刷局久我山運動場となっている久我山陣地に、最新鋭の15cm高射砲が2門配置されました。準備の整った8月1日13時30分、この高射砲は久我山の上空にさしかかった30機のB29編隊の2機を撃墜しました。高射砲の威力は大きかったのです。しかし、敵機はその後久我山上空を飛行しませんでした。15cm高射砲は砲身の外径が30cmを超え、長さは10数m、砲弾は人の背丈ほどもあって、発射するとすごい地響きがしたそうです、終戦後米軍はこの高射砲を分解して持っていってしまいました。
第62回 坂上から坂下へ (1)
甲州街道「桜上水駅北」の交差点を北へ入ると玉川上水跡の公園があります。ここには旗本の加藤屋敷へ行く加藤橋が架かっていました。この辺りは昭和40年頃まで坂上、坂を下った向陽商店街の辺りは坂下と呼ばれていました。地形や地物等による通称地名の一つが坂上・坂下ですが、これらの名称は時代が変わるとともに使われなくなります。この道は古い道で、北へ進み下高永福多目的会議室(注)の手前で左へ、さらに右折・左折をして八幡様の前へと続きます。加藤橋跡から公園を西へ、次の昭和橋跡から北への道の突き当りを右へ曲がると、先程の坂下からの道に合流します。これらの道に囲まれたところと3丁目20番、そして30番の一部が下高井戸三丁目町会の区域です。向陽商店街の四つ角から坂上、西の高三小の方に眼を向けると、いずれも登り坂となっています。その高みの様子は、多目的会議室手前左側の石垣で分かります。この台地の続きは向陽中脇の神田川分流で断たれていますが、昭和10年代末頃まで現在校舎の建っている辺りに加藤屋敷のあったお屋敷山が残丘として残っていました。
(注)現レイモンドほいくえん
第63回 坂上から坂下へ (2)
われわれの住んでいるところは武蔵野台地の末端に近い場所で、玉川上水がつくられた台地の部分とそれを侵食して流れる神田川沿いの低地への傾斜地にあります。加藤橋跡から坂を下り始めた左側の家の間から崖が見えます。この崖は緩く右へ曲がりながら坂道と並行して北へ続き、高さを下げて牛乳屋さんの脇で坂上からの道に合流します。武蔵野台地は地下水が豊かで、この辺りでも以前は崖の下などから水が湧き出て庭に小さな流れを見ることができたそうです。家々では上水として井戸水を使っていました。町会南部の縦横に街路の作られている部分は、昭和10年代半ば頃に宅地開発が行われて住宅が建つようになりました。戦後この辺りに急速に人が移り住むようになるまでは町会の北の部分は畑、その北から東方向の神田川とその分流に沿った辺りは水田で、川の改修が行われる前は向陽橋もありませんでした。つい最近北部にわずかに残っていた空き地にも住宅が建ち、今では建物の建っていない土地は駐車場だけになりました。八幡様の森が、町内から見えていたのが信じられないような状況です。